『雲をつかむ死』ポアロが乗り込む飛行機内での殺人事件〜アガサ・クリスティ

『雲をつかむ死』ポアロが乗り込む飛行機内での殺人事件〜アガサ・クリスティ

黄蜂と毒針と吹矢筒と...『雲をつかむ死』アガサ・クリスティ

アガサ・クリスティの『雲をつかむ死』。ポアロが乗り込んだ飛行機内での殺人事件です。

11人の客が乗り込む後部座席の狭い空間で、犯人は誰にも見られずに一体どうやって犯行を遂げたのか?

閉鎖空間でのトリックもので、なかなか面白い。

自分の座席から犯行道具が見つかったために、あやうく容疑者にされそうになったポアロが事件に取り組みます。

あらすじ&感想と、犯行現場となる飛行機についてまとめました。

目次

『雲をつかむ死』のあらすじ

パリからロンドンに向けて飛び立った旅客機プロメテウス号の最後部席で、1人の老婦人が音も立てずに亡くなった。

機内にいた医師が死亡を確認した直後、乗り合わせていたポアロは婦人の首に小さな刺し痕があることに気づいた。客の1人は、さっき黄蜂が飛び回っていたと言う。

さらにポアロは、黄色と黒の絹のついた、黄蜂のようにも見える毒針が床に落ちていることを発見した。

探偵作家のクランシイ氏が言うには、その針はどこかの原住民の吹き矢から放たれるもので、矢の先には南アメリカのインディアンの有名な毒がついているらしい。

「でも、そんなことがあり得ましょうか?」

機内の後部座席に座っていたのは、被害者を除いて10人。

美容院の助手に、歯科医、伯爵夫人、貴族の令嬢、耳鼻科の医者、考古学者とその息子、探偵作家、会社経営者、そしてポアロ。

加えて、客席を行き来していたスチュワードの2人が容疑者だ。

被害者の座席のそばを通ったのは、スチュワードを除くと1人だけ。その他は席を立たなかったか、前方の洗面所に入っただけだった。

捜査の結果、殺された婦人はパリでもっとも有名な金貸しの1人マダム・ジゼルであることがわかった。ポアロの座席からは、原住民が製作した吹矢筒が発見される。

発見された品からすると、誰かが吹矢筒で毒矢を放って殺したのだと考えられる。しかし当然、そんな様子を見た者は誰もいない。

そもそも、狭い機内でそんな犯行は可能なのか?

ポアロは友人ジャップ警部とフランス警察のフルニエ氏と協力しながら犯人を探し出す。

パリからロンドンに向かう定期旅客機が英仏海峡にさしかかった時、機内に蜂が飛びまわり始めた。乗客の一人が蜂を始末したが最後部席には老婦人の変死体が。そしてその首には蜂の毒針で刺されたような痕跡が残っていた......大空を飛ぶ飛行機という完全密室で起きた異様な事件。居合わせたポアロが調査を開始する。
解説:紀田順一郎

『雲をつかむ死』(早川書房 クリスティー文庫)

『雲をつかむ死』感想と読みどころ

原題は“Death in the Clouds”。直訳だと「雲の中の死」です。

「雲をつかむ死」と訳されているのは、雲をつかむかのような「漠然としてとらえどころのない死」という意味が込められているのか。

アガサ・クリスティ公式サイトによると、この作品は最初アメリカで出版され、その際は“Death in the Air”というタイトルだったようです。

“Death in the Air” だと「空の中の死」。「雲の中」よりも爽やかな感じがします。

Cloud は調べてみると、雲以外にも、雲上のもうもうとしたもの、事実・判断などを曇らせるもの、曇り、かげりといった意味があるようです。

Air よりも暗くてかげりがあって、もやもやっとした雰囲気も感じるので、そういう意味も込めて改題されたんでしょうか。日本語の「雲をつかむ死」はうまく訳されてるのかなと感じました。

凶器のすさまじさと滑稽さ

この作品の面白さの1つは、犯行に使われた凶器というか犯行道具のすさまじさ。

使われた毒針は、原住民のある種族によって使われているもの。その毒針を吹き矢として吹くための吹矢筒も見つかった。

実際に使われた毒は、原住民が使用する毒ではなくブームスラングと呼ばれる南アフリカ産の蛇の毒だという。

ブームスラングを調べてみると、こんな蛇らしい。

ブームスラング
William Warby from London, England, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons

ひえー。鮮やかなのが怖い。生き物のなかでもっとも激しい毒を持ち、毒液を注射されるとまるで鉄砲に撃たれたように死んでしまうという。

いかにも恐ろしいんですが、でも、ちょっと考えてみますとね、

飛行機という近代的な乗り物の機内で、乗客が座席に座っているなか、原住民の吹矢筒を使って蛇の毒針を吹いて人を殺すって...

状況を考えただけでも滑稽で、まさにポアロの言う通り「そんなことあり得る?」と発しないではいられない。

誰にも見られずにそんなことが可能なのかと機内で竹筒を吹く真似をして、乗客から驚きの目を向けられるという実験を遂行したフルニエ氏もまことにあっぱれな滑稽さ。

そう、誰にも見られずにこの犯罪を成功させることは、普通の状態では不可能なのです。

犯人が作り出す「心理的瞬間」が何なのか

この犯行を現実のものにするには、あらゆる人の注意がどこか別のほうに向けられ、誰ひとり犯行を見ないという「心理的瞬間」が必要だとポアロは主張します。

そして、その瞬間は犯人によって作られたものでなければならない。

その心理的瞬間とは何なのか?

これが、この作品における難解な問いとなっています。

一番その瞬間を作りやすいのはスチュワードでしょう。周囲に何の疑問も持たれずに、被害者に近寄って食事や飲み物を差し出せる立場にいます。

しかし、スチュワードに話を聞いてみると彼らが犯人だとは思われない。ポアロもスチュワードを容疑者から除外はしませんが、特別厳しい疑いの目を向けることなく捜査を進めているように思います。

よく考えてみると、この状況で一番疑われやすいのはスチュワードなのだから、もしスチュワードが犯人なら自分が疑われやすいような犯行は計画しないですよね。

心理的瞬間が何だったのかは最後の謎解きで明かされます。

殺人は、ある結果をもたらすための行為

今回の殺人事件が起こった結果、乗客にはどんな影響があったのか。

捜査中、ポアロは次のような発言をします。

「私の考えでは、殺人とは必ずある結果をもたらすための、行為なのであります」

『雲をつかむ死』(311ページ)

この言葉にはハッとさせられますね。いつだって妙ちくりんなポアロから、いつだって理にかなった言葉が出てくることに、なぜかときどきすごく感動を覚えるのです。

ジャップ警部は「もう一度ゆっくりいってくださいよ」「あなたは、やたらにむずかしくいうんだから」などと言いますが、ポアロの言うことは普通によくわかる。

事件のあと、何人かの乗客は影響を受けました。

ジェーン・グレイは給料増額に成功したが、ノーマン・ゲイルは患者が激減。クランシイ氏は事件をテーマにした小説が書けそうで、ライダー氏は目撃者談を話すことで新聞社からお金を得た。

一方で、何の結果もなく利益も損も受けなかった人間もいます。

普通に考えれば、何らかの有益な結果を得た人物が犯人でしょう。しかし安易には判断しないのがポアロ。短期的なプラスマイナスには縛られずに捜査を続けます。

旧訳版

新訳版

『雲をつかむ死』の飛行機って?

読んでいて気になったのが、犯行現場となるこの機内がいつ頃のどんな飛行機だったのかというところ。座席が明らかに少ないし、食事の支払いの仕組みも今とは違っています。

この作品が発表されたのは1935年。

本書の解説によると、『雲をつかむ死』ドラマ版(1992年)ではダグラス社(現ボーイング社)のDC-3と同じ系統の機種が撮影に用いられたようです。

ダグラスDC-3
アメリカン航空のDC-3
Roger Smith, FSA/OWI Collection, Public domain, via Wikimedia Commons

ただ、DC-3は1935年末に米英大陸間に就航した機種だということですが、本書刊行後の就航のため執筆時に素材とするには時期が合いません。

百科事典 Encyclopedia Britannica で調べてみると、当時イギリスからアフリカ・中東行きに使われていたインペリアル航空の標準機種は、1930年代後半まで Handley Page(ハンドレページ)H.P.42 であったと説明されています。

さらに調べるとこの機種は2種類あり、アフリカ・東方への長距離用(H.P.42E)と、ヨーロッパ航路用(H.P.42W)があったとのこと。

Handley Page(ハンドレページ)H.P.42
ハンドレページ H.P.42「ハンノ」号(G-AAUD)
Matson Collection, Public domain, via Wikimedia Commons

ヨーロッパ航路用(H.P.42W)の定員は38~40人のようで作品中のプロメテウス号と矛盾しませんし、以下サイトに出ている機内図面も本書内の見取り図とほぼ同じです。

1931年にこの機種でロンドン - パリ間の就航が始まったようなので、アガサ・クリスティが執筆中に参考にしたのはこの H.P.42 である可能性が高いと思います。

Wikipedia によると、H.P.42 は1940年までに全機が喪失したとされています。そのためドラマで使うことはできず、似たようなダグラスDC-3を使ったのかもしれないですね。

H.P.42 の客室はかなり豪華な仕様だったようです。

写真を見ると、確かに座席や窓際のカーテンの雰囲気はファーストクラス風。
先ほど挙げた参考サイトにも、別の内装写真が出ています。

Handley Page(ハンドレページ)H.P.42 内装
Matson Collection, Public domain, via Wikimedia Commons

作品中、座席の一部は向かい合っていることになっていますが、この写真も向かい合っているように見えます。

スチュワードも、高級レストランにいそうな雰囲気。
この作品に出てきたスチュワードからはこんな雰囲気は全く感じなかったけど、こんな感じだったのね。。

Encyclopedia Britannica によると、ハンドレページ社の旅客機は初期から、空力効率と速度を犠牲にして広々とした豪華で優雅な移動を提供していたようです。

(ハンドレページは第一次大戦中は爆撃機を製作しており、1919年頃の初期の旅客機は爆撃機を改造して作ったとのこと)

当時の一般的な移動手段は汽車や船だったはずなので、今でいうビジネスクラス・ファーストクラスで旅行するような人が、当時の飛行機に乗っていたのかなと想像します。

『雲をつかむ死』ネタバレ結末と感想

マッチ箱の画像

マダム・ジゼルの娘アン・モリソーと出会ったノーマン・ゲイル(犯人)は、娘と結婚して莫大な財産を相続するためマダムの殺害計画を立てた。

マダムとのトラブルを抱えていたホーバリ夫人に嫌疑をかけようと、2人が同じ飛行機に乗り込むよう画策し、自分もそこに乗り込んだ。

機内では洗面所で歯科医の白衣を着こみ、スチュワードに扮してマダムの座席まで行って毒針を刺した。と同時に黄蜂を放ち、洗面所で白衣を脱いでから席に戻る。

黄蜂に刺されたことになったらそれで良いし、殺人だとなれば吹き矢が凶器として捜査が進む。いずれにしても自分は疑われないという寸法です。

スチュワードと歯科医の白衣がよく似ていたために可能なトリックでした。

1つ前に読んだ『パディントン発4時50分』ではマープルの謎解き後に犯人があっさり観念したのが不満でしたが、今回の犯人ノーマン・ゲイルは犯人扱いされてもきっちりしぶとく粘っており、ポアロがそこに証拠を突き付けるという満足な展開でした。

ノーマンの最後のセリフ、「このおせっかいなチビのほら吹き!」が笑えます。英語って罵倒語がすごく発達してるしバリエーション豊富ですよね。。日本語にはない文化だと思う。

マダム・ジゼルの娘アン・モリソーがただただ悲惨な役回りで... かわいそうでした。母親には捨てられて孤児院で育てられ、賭博好きの男に金目当てで利用されて最後には殺されてしまうなんて。

ジェーンまで悲劇に合わなかったのが救いでしょうか。

ポアロは考古学者のデュポン氏に、ジェーンをペルシャの発掘旅行に連れていくよう頼んでいます。

おそらくその時点でポアロは犯人に確信を持っていて、仕事を失い恋人も失うであろうジェーンの今後の行き先を仕事・恋人の両面で確保してくれてるんですね。

紳士!

ポアロって紳士ですよね。自分の能力についてはまったく謙遜しないし、おかしな言動も目立ちますが、こういう良い意味でおせっかいの焼き方は非常にスマートで嫌味もない。当人にも周囲にも迷惑な世話を焼きたがるおばさんとは全然違う。

最初は「あなたは気が変になったんですの?」と反応したジェーンでしたが、最終的にはポアロの言う通りペルシャに行くことになります。笑

人の心情と状況の把握、先を見通す力が抜群に優れているんでしょうね。

好青年がいる発掘旅行に同行させるという発想を聞いて、アガサ・クリスティはもう考古学者のマックス・マローワンと再婚したあとだったかな? と気になりました。本書刊行は1935年で再婚は1930年のようなので、確かにあとですね。ま、そりゃそうですよね。

アガサ・クリスティの作品・感想一覧

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