『満潮に乗って』の意味は...遺産をめぐる人間模様と男女のドラマ
アガサ・クリスティの『満潮に乗って』を読みました。ポアロシリーズです。
ある大富豪が、遺言を残さないまま空襲により急死。
莫大な財産を相続した若い未亡人と、遺産の恩恵を受けられずに困窮する一族。
そして、婚約中の男女の前には危険な男が現れる。
とても面白かったです。
戦後の苦しい生活のなか金銭的な庇護を失った一族の心理や、戦争を経た男女の心のすれ違いなど、ミステリーのベースになっている人間模様とロマンスの描かれ方がすっごく良くて、個人的には大好きな作品。
解説には「読み終わってすぐには名作とは感じないが、じつは傑作」などと書かれていますが、そんな評価では全然もの足りないのでは。
読後の爽快感も良い。
あらすじ・感想・ネタバレと、タイトルである「満潮に乗って」の意味についてもシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読んで考察しました。
目次
『満潮に乗って』あらすじと登場人物
あらすじ
大富豪ゴードン・クロードが、若い未亡人と結婚した直後に空襲で急死した。
邸宅の使用人も亡くなり、生き残ったのはゴードンの妻ロザリーンとその兄デイヴィッドだけ。ロザリーンはゴードンの莫大な財産を相続し、兄とともにクロード一族が住む村ウォームズリイ・ヴェイルで暮らし始める。
一方、クロード家の人々はゴードンの死により金銭的に苦しい立場に追いやられていた。ゴードンが遺言を書き換えなかったために、あてにしていた遺産が一切手に入らなかったのだ。
誰もが、本来クロード一族が受け取るべき遺産をロザリーンに奪われたと感じていた。デイヴィッドは妹ロザリーンに、クロード家の人間はお前を亡きものにしたいと考えているに違いないと忠告する。
そんなある日、デイヴィッドのもとに1通の手紙が届いた。イノック・アーデンという人物からで、ロザリーンの前夫であるロバート・アンダーヘイに関する知らせがあるという。
アンダーヘイはジャングルの奥地で亡くなったはずだが、簡潔で丁寧な手紙の文面には脅迫めいた響きがあった。デイヴィッドはロザリーンをロンドンに行かせ、1人で会いに行くことにする。
その晩デイヴィッドがイノック・アーデンに会うと、彼はアンダーヘイが実はまだ生きていると言う。アンダーヘイが生きているとなれば、ロザリーンはミセス・アンダーヘイのままとなり、ゴードンの遺産を相続することはできなくなる。
イノック・アーデンは、この事実をクロード一族に知られたくなければ多額の現金を支払うようデイヴィッドに要求。デイヴィッドは渋々金を渡す約束をする。
そして約束の日の翌日。イノック・アーデンは宿泊していた宿屋で死体となって発見された。
大富豪ゴードン・クロードが戦時中に死亡し、莫大な財産は若き未亡人が相続した。戦後、後ろ盾としてのゴードンを失った弁護士や医師らクロード家の人々は、まとまった金の必要に迫られ窮地に立たされていた。“あの未亡人さえいなければ” 一族の思いが憎しみへと変わった時......戦争が生んだ心の闇をポアロが暴く
『満潮に乗って』(早川書房 クリスティー文庫)
解説:中川右介
登場人物
物語の舞台は、ロンドンから45キロほど離れた昔風の小さな村ウォームズリイ・ヴェイル。登場人物はクロード家の一族とその周辺人物が中心です。
エルキュール・ポアロ:
私立探偵。ケイシイ・クロードの訪問をきっかけに事件に関心を抱く
ゴードン・クロード:
大富豪。40も年下の若い未亡人ロザリーンと再婚。その直後、遺言を書き換える間もなく空襲により亡くなってしまう
ロザリーン・クロード:
24歳でゴードンと再婚。ゴードンの遺産をすべて相続し、兄デイヴィッドと「ファロウ・バンク」に住んでいる。以前はアフリカでロバート・アンダーヘイと結婚していた
デイヴィッド・ハンター:
ロザリーンの兄。ゴードンのお金をあてにして悠々と暮らしてきたクロード家の人々を軽蔑している。ロザリーンに指図し、クロード一族にお金を渡すまいとしている
リン・マーチモント:
ゴードンの姪。戦時中は WRNS(海軍婦人従軍部隊)として外地を回っていた。戦後村に戻り「ホワイト・ハウス」で母アデラとともに暮らす。戦争が始まる前に従兄のローリイと婚約した
アデラ・マーチモント:
ゴードンの姉でリンの母。「ホワイト・ハウス」に住む。未亡人で、ゴードンから援助を受けながら暮らしていたが、ゴードンの死後は生活が苦しくなりロザリーンに無心する
ローリイ・クロード:
ゴードンの甥で農場経営をしている。ゆくゆくはゴードンから出資をしてもらう予定であった。リンの婚約者。「ロング・ウィロウズ」に住んでいる
ジャーミイ・クロード:
ゴードンの兄。弁護士。人からは “朴念仁” と呼ばれている。ゴードンの死後、金銭的に窮地に陥る
フランセス・クロード:
ジャーミイの妻。夫の窮地を救うためロザリーンとデイヴィッドに借金を頼みに行くが断られる
ライオネル・クロード:
ゴードンの弟。開業医。引退して自分の研究に打ち込むつもりだったが、ゴードンの死により開業医の仕事を続けざるを得なくなっている
ケイシイ・クロード:
ライオネルの妻。こっくりさん占いに導かれポアロを訪問するが、依頼を断られる。霊的なものを信じている
ロバート・アンダーヘイ:
ロザリーンの前夫。ロザリーンとアフリカで結婚後、現地で亡くなったと伝えられていた
イノック・アーデン:
ある日ウォームズリイ・ヴェイルにやってきた見慣れない男。宿屋「スタグ」に宿泊し、デイヴィッドを手紙で呼び出す
ポーター少佐:
前インド軍陸軍少佐。ロバート・アンダーヘイの友人。防空監視員をしており、ゴードンの邸宅が爆撃にあったときの様子を知っている
ビアトリス・リピンコット:
宿屋「スタグ」の女主人
スペンス警視:
オーストシャー警察捜査主任。『マギンティ夫人は死んだ』や『ハロウィーン・パーティ』にも登場する
『満潮に乗って』感想と読みどころ
感想:のめりこんだ
非常に好きな作品でした。1つ前に読んだ『魔術の殺人』が全然ストーリーに入り込めなくて面白く感じられなくて自分の感性がおかしくなったのかと思ったのですが、そうじゃなかったみたい。
めちゃくちゃ話にのめりこんじゃいました。笑
登場人物も個性的で魅力的で、特に女性陣がつよつよ。
リンは村を出て従軍してるし、ケイシイはこっくりさんを信じてポアロに依頼に行ってるし、フランセスは、、、
個人的にはフランセスが一番好きでした。
戦争と遺産争いに加えられた少女漫画的な三角関係が...イイ
この『満潮に乗って』のテーマを3つ挙げるとしたら「戦争・遺産争い・三角関係」でしょうか。
まず戦争。
アガサ・クリスティは第一次・第二次世界大戦を経験していて、作品には戦争の存在を感じさせるものも多いですが、この作品もその1つ。
空襲での大富豪の死により周囲の人物の運命が全く変わったものになってしまうという意味では、戦争の存在感はひときわ大きいですね。
また、戦後の厳しい暮らしむきに苦労する没落一族の心理や、戦争に行った女と行かなかった男の葛藤の描かれ方も面白かった。というか、考えさせられるものがありました。
そして遺産争いに三角関係。
遺産争いというだけなら『葬儀を終えて』や『ねじれた家』など他にもいろいろあるのですが、そこに男女関係をがっつり入れ込んでくるという面白さ。
戦争前に婚約していたリンとローリイは、戦争を経てお互いの気持ちにすれ違いを感じます。戦争に出たリンは何も変わらない村の暮らしやローリイに退屈さを覚え、戦争に行かなかったローリイはそのことに引け目を感じている。
そんななか登場してしまったのが、いかにも危険な男デイヴィッド。戦争中にはその勇敢さを称えられたものの、平和な世では無鉄砲で荒っぽい男です。
デイヴィッドは最初に会ったときからリンに惹かれ、婚約中のリンをなんとか自分のものにしようとする。また、ローリイとの結婚に疑問を感じ始めたリンも、デイヴィッドの率直さと強引さに惹かれ始めていきます。
このデイヴィッドの人物的な危うさというか、安全なローリイではなく危険なデイヴィッドに惹かれていくリンの危うさが、もうまさに少女漫画っていう感じだった。小説を読みながら漫画を感じた。面白かった。
さてリンはどちらを選ぶのか。この3人の結末には好みがわかれるかもしれませんが、その過程でドキドキすることは間違いありません。
っていうか、この作品は1948年発刊だから約70年前の作品なんですが、70年前の小説に現代の少女漫画との共通性を感じながらドキドキハラハラしてしまうってどういうこと?笑 人間の感情の変わらなさを感じました。
以下はネタバレになります。
『満潮に乗って』ネタバレ結末と考察
あらすじの続き
亡くなったイノック・アーデンの所持品からは、身元を特定できるものは何も発見されなかった。現場に落ちていたのはライターと口紅。時計は9時10分で止まっていた。
イノック・アーデンは本当にアンダーヘイの友人なのか? 警察はロザリーンに遺体の確認を求めるが、彼女はまったく知らない男だと言う。
一方、ローリイは事件の晩にイノック・アーデンと会っており、彼がアンダーヘイ本人なのではないかと疑っていた。そこでポアロに男の正体を突き止めてほしいと依頼する。
以前クラブでイノック・アーデンの名を耳にしていたポアロは、アンダーヘイの友人であるポーター少佐をすぐに探し出した。ポーター少佐は、殺されたイノック・アーデンが間違いなくアンダーヘイであると断言する。
しかし検死審問の翌日、ポーター少佐は自宅でピストル自殺をしてしまう。書き置きは何も残されていなかった。
そしてフランセスは、夫ジャーミイの窮地を救うために親戚のチャールズに頼んでイノック・アーデンのふりをさせ、デイヴィッドから金を巻き上げようとしたことをポアロに告白。
事件の真相が見えてきたポアロはリンと2人でロザリーンに会いに行くが、ロザリーンはすでに死体となっていた。机には自分の罪を後悔するような書き置きが。警察はロザリーンの自殺と見るが......。
犯人・動機・推理の鍵
ロザリーンの死後、スペンス警視はロザリーンがイノック・アーデンを殺した罪に耐えかねて自殺をしたのだろうとポアロに話します。
しかしポアロは「ロザリーンは殺された」と答えます。
ポアロによると、3人の死はすべて異なる種類の死でした。
最初に起きたイノック・アーデンは事故死。
次のポーター少佐は自殺。
最後のロザリーンが、冷酷な殺人者による他殺。
本当の殺人は最後のロザリーンの死だけ。そして、その殺人を実行したのはデイヴィッドでした。
実はクロード一族の前に現れた2人は本当の兄妹ではありませんでした。デイヴィッドの本当の妹であるロザリーンは空襲の際にゴードンと一緒に亡くなっており、当時使用人だったアイリーンがロザリーンになりすましていたのです。
イノック・アーデンの死
イノック・アーデンはローリイに顎を殴られ、その拍子に大理石の縁で頭を打ったことが死因でした。(ローリイに殺意がなかったので、ポアロからすると事故死という扱い)
ローリイは、フランセスが親戚チャールズに芝居をうたせてロザリーンから金を巻き上げようとしていることに気づき、身内の卑劣な行為への憤りでイノック・アーデンを殴ってしまったのです。
そして彼が死んだことに気づくと、デイヴィッドに嫌疑がかかるよう火挟みで殴打を加えて他殺に見せかけ、デイヴィッドのライターを落とし、時計の針を回し、身元書類を抜き取って部屋を去ります。
(ここまですると、単に事故死とするには悪意がありすぎる気が...)
デイヴィッドは事件の晩、イノック・アーデンに要求された通りに金を渡すつもりでした。しかし部屋を訪ねると彼はすでに死んでおり、自分が危うい立場に置かれたことを悟ります。
そこで、女に変装して事件を混乱させ、またリンに電話をすることでアリバイ工作を行いました。
●当日の時系列
20:00 過ぎ
ローリイが「スタグ」に行き、ビアトリスから恐喝のやりとりを聞く
20:20 頃
ローリイはジャーミイの家に行き、書斎で待つ間にイノック・アーデンがフランセスの身内であることに気づく
20:30〜20:40 頃
ローリイが「スタグ」に行き、五号室でイノック・アーデンの顎を殴る。イノック・アーデンが大理石に頭を打ちつけて死亡。偽装工作をして去る
21:00 頃
デイヴィッドは金を渡すため「スタグ」へ。部屋でイノック・アーデンが死んでいるのを見ると、急いでその場から立ち去る
21:15〜21:25 頃
デイヴィッドは 21:20 発ロンドン行きの汽車に乗るべく雑木林を走っていたが、途中でリンに出くわす。そこで汽車に乗り遅れたことに気づくが、それをリンには悟らせないよう時間を偽って答える。ロンドンに戻ったらリンに電話をかけると伝える
21:30 〜22:00 過ぎ
デイヴィッドは妹のスカーフと口紅を持ち出し女装。「スタグ」に戻り、老婦人に姿を見せて第三者の女を演じ、イノック・アーデンがまだ生きているかのように見せかける
22:15 頃
デイヴィッドは公衆電話からロンドンのロザリーンに電話し、23:04 にリンの家に電話をかけるよう指示。電話ボックスから出る際、すれ違ったケイシイに頼まれて2ペンス貨を渡す(このあとケイシイはリンに電話)
23:00 頃
ロンドンにいるロザリーンがリンに電話。すぐに切れた後、掛け直したかのように見せかけてデイヴィッドが村の公衆電話からリンに電話。リンはデイヴィッドがロンドンから掛けてきたと思い込む。
その後デイヴィッドは5km歩き、別の駅から始発でロンドンに戻った。
●推理の鍵
- ローリイは、ジャーミイの書斎でエドワード・トレントン卿(フランセスの父。フランセス、チャールズにそっくり)の写真を見た後に書斎を出ていた。ポアロもその写真をじっと見つめていた
- 事件の夜にデイヴィットとリンが出くわしたとき、リンはすでに汽車がはく煙を目にしていた(つまり汽車はすでに出発しており、デイヴィッドがロンドン行きの汽車に乗れたはずがない)
- デイヴィッドが恐喝に遭い金を用意する行為と、恐喝者を殺す行為は矛盾する
- イノック・アーデンの検死をしたライオネルは遺体の損傷具合を見て、一人が煉瓦で殴り、もう一人が火挟みで殴ったかのような印象を受けていた
ポーター少佐の死
ポーター少佐は「イノック・アーデンがアンダーヘイである」と偽証をすることに耐えられず、ピストル自殺を選んでしまいました。
嘘の証言を依頼したのはローリイ。ポーター少佐は経済的な困窮が理由で一度は偽証を引き受けたものの、後悔の念に苛まれて命を絶ちます。
ローリイはジャーミイから、以前クラブでポーター少佐がイノック・アーデンの話をしていたことを聞いていたと考えられます。そのクラブに居合わせていたポアロはポーター少佐にすぐにたどり着きましたが、ローリイはそれを見越してあらかじめ段取りをつけておいたのです。
ポーター少佐が書き残した「殺された男はアンダーヘイではない」というメモは、ローリイによって持ち去られていました。
●推理の鍵
- クラブでポーター少佐がイノック・アーデンの話を出した際、ジャーミイもその場で話を聞いていた(冒頭の描写なので忘れがち)
- ポーター少佐は、ポアロとローリイが会いに行った際、ローリイに「タバコは吸いませんね」とすでに面識があるかのように発言していた
- 几帳面な性格であり退役軍人でもあるポーター少佐が、自殺に際し何も書き置きを残さないのはおかしい
ロザリーンの死
ロザリーンは、常用していた睡眠薬をモルヒネとすり替えられてデイヴィッドに殺されました。
このロザリーンはデイヴィッドの妹ではなく、空襲の際に生き残った使用人のアイリーンでした。
本物のロザリーンはゴードンとともに空襲で亡くなっており、デイヴィッドは安楽な生活を手放したくないがために、自分を慕うアイリーンを説き伏せてロザリーンになりかわるよう仕向けていたのです。
しかしアイリーンは良心の呵責に苛まれていました。彼女がすべてを告白してしまえば、そそのかしたデイヴィッドが罪に問われるのも時間の問題。またデイヴィッドはリンに惹かれており、アイリーンの存在が鬱陶しくなり始めてもいました。
そこで、動機のない自分は疑われないという計算でアイリーンを殺すことにしたのでした。遺産を失うことになりますが、いずれにしろアイリーンはこの状態を長く続けられそうにはありませんでした。遺産を放棄する代わりに、リンを自分のものにしようとしたのです。
●推理の鍵
- アイリーンは常におどおどしており、デイヴィッドを恐れていた
- ポーター少佐のロザリーン評が、アイリーンの人物像と重ならない(ロザリーン評はプロローグにあり、印象が薄れがち)
- デイヴィッドが不在の間にアイリーンがローリイの家に来た際、「まるでメイドのように半日だけの暇をもらった」かのようだとローリイは感じていた
- 本物のロザリーンはカトリックではなかったが、アイリーンはカトリック信者で、罪の意識に強く苛まれていた(ロザリーンがカトリックではなかったとポアロが発言しているが、地の文での描写は見つけられなかった)
- イノック・アーデンが現れた際、デイヴィッドがロザリーンをロンドンに行かせて会わせないようにしたのはおかしい(イノック・アーデンがアンダーヘイかどうかは、本物のロザリーンであれば確認できるはず。イノック・アーデンがアンダーヘイである場合、ロザリーンが偽物だとバレるため会わせるわけにはいかなかった)
- リンはデイヴィッドの旅団長と話し、彼が本物であると確信していた(本物なのはデイヴィッドだけ。2人が本物の兄妹であると思わせるミスリードだと思う)
イノック・アーデンの検死審問が行われる前、デイヴィッドはロザリーンを落ち着かせようとしますが、ロザリーンは「ひとさまのお金を横取りするなんて。神さまの罰が当たったんだわ」と不安がります。
そして。
デイヴィッドは眉をしかめた。ロザリーンは危うい──たしかに崩壊寸前だ。
『満潮に乗って』(252ページ)
(中略)
それをくいとめるのには、たった一つの手しかない。
「たった一つの手しかない」。おそらくこのときに、デイヴィッドはロザリーンを殺す決意をしたのだと思われます。
その直後にデイヴィッドはロザリーンを優しく説得するので、読んでいる最中はその説得が「手」なんだろうと思わせるようになっているのですが、よく考えれば説得することが「たった一つの手」というほど強い表現になるのはおかしい。
さらにその説得の最後には、処方された睡眠剤を毎晩忘れずに飲むように念を押しています。
この時点では読者の多くはデイヴィッドとロザリーンは本物の兄妹だと思っていると思いますし、デイヴィッドがロザリーンを殺す動機が考えられないので、ここでデイヴィッドがロザリーンを殺す決意をしたことを初読で読み取れる人はいないでしょう。たぶん。
ロザリーン(アイリーン)が本当の妹ではない
→ アイリーンがなりすましを自白しそう&アイリーンの存在がリンとの結婚に支障
→ アイリーンを消したい
※ ポアロ曰く、デイヴィッドとアイリーンは「情を通じていた」
という図式で動機が発生するので、2人が本物の兄妹ではないことを察せられるかがロザリーン殺害の推理の鍵だったかもしれません。
「満潮に乗って」の意味とは?
本書のタイトル『満潮に乗って』ですが、満潮というと日本語では「潮が満ちて海水面が最も高くなった状態」をイメージすると思います。
そこで「ん、満潮に乗る、、とは...?」と読後もちょっと意味がつかみきれなかったので、出典であるシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読んでみました。
最初に結論から言うと「満潮に乗って」は「満ちてゆく潮の流れに乗って」という表現で捉えるとわかりやすいです。
「満潮に乗る」よりも、「満ち潮に乗る」「上げ潮に乗る」という訳のほうがしっくりきます。
そしてこのフレーズが意味するところは「機を逸するな」。満ち潮の話はその例えです。
『ジュリアス・シーザー』の該当部分の訳は、本書では次のようになっています。
およそ人の行ないには潮時というものがある、
うまく満潮に乗りさえすれば運はひらけるが、
いっぽうそれに乗りそこなったら、
人の世の船旅は災厄つづき、
浅瀬に乗り上げて身うごきがとれぬ。
いま、われわれはあたかも、
満潮の海に浮かんでいる、
せっかくの潮時に、流れに乗らねば、
賭荷も何も失うばかりだ。シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』(四幕三場)
『満潮に乗って』(恩地三保子訳 クリスティー文庫 3ページ)
この訳だと個人的にはちょっと意味がつかみにくいんですよね。
そこで、他の『ジュリアス・シーザー』の訳をいくつか紹介します。これらを見ると、意味がだんだんとつかめてくると思います。
まずは松岡和子さんの訳
人間のなすことには潮時というものがあり、
『ジュリアス・シーザー』松岡和子訳 ちくま文庫 156ページ(2014年)
上げ潮に乗れば幸運の港にたどり着く。
だが潮に乗り損ねれば、人生という航海の末路は
浅瀬で座礁するという悲惨なものだ。
我々はいまそんな満ち潮に浮かんでいる、
せっかくの潮の流れを逃してはならない、さもないと
全財産を投資した船荷を失くしてしまう。
安西徹雄さんの訳。個人的にはこの訳が「満潮に乗って」が意図するところを最もわかりやすく映していると思う。
人間の行なうことには、すべて潮時というものがある。
『ジュリアス・シーザー』安西徹雄訳 光文社古典新訳文庫 142ページ(2007年)
時機を捉えて上げ潮に乗ればいいが、
機を逸すれば、人生の船旅はたちまち浅瀬に乗り上げ、
破船に終る。
今われわれの船は、満ち切った潮(うしお)の上に浮かんでいるのだ。
この好機、流れに乗らねば、われらが大事業も虚しく終ろう。
古いですが福田恒存さんの訳。
おおよそ人のなすことには潮時というものがある、
『ジュリアス・シーザー』福田恒存訳 新潮文庫 127ページ(1968年)
一度その差し潮に乗じさえすれば幸運の渚に達しようが、
乗りそこなったら最後、この世の船旅は災難つづき、
浅瀬に突きこんだまま一生うごきがとれぬ。
いわばその満潮の海に今われわれは浮んでいる、
せっかくの差し潮、それに乗じなければ、
賭けた船荷を失うばかりだ。
原文を見る
There is a tide in the affairs of men,
Which, taken at the flood, leads on to fortune;
Omitted, all the voyage of their life
Is bound in shallows and in miseries.
On such a full sea are we now afloat,
And we must take the current when it serves,
Or lose our ventures.
出典:The Project Gutenberg eBook of Julius Caesar, by William Shakespeare
このセリフは、ブルータスが仲間のキャシアスに「いま攻め込むべき」ということを説くためのものでした。
キャシアスは、敵が進軍してくるのをこの場で待ち、兵力・物資ともに相手が消耗したところを狙おうと主張します。
しかしブルータスは反論します。
「いま、我々は最大限まで味方を動員しており、兵力は今が極限。一方で敵の軍勢は日に日に増大している。今絶頂にある我が軍は、この機を逃せばあとは衰退するだけだ」
そして「人間のなすことには潮時というものがあり...」と上記のセリフが続くのです。
ここまでくると、「満潮に乗って」の意味がだいぶわかってきます。
潮の満ち引きは、人間にはコントロールできません。
人間にできることは、潮時(好機)を見てその流れに乗ることだけ。
特に、入港する際は機を見て満ち潮に乗る必要があります。
(乗り遅れると引き潮になり、流れに押し返されてしまうため)
機を見て満ち潮の流れに乗れば幸運の港にたどり着くが、
機を逸すれば、海は引き潮となり船は浅瀬で座礁する。
今、我々の軍勢は絶頂期。上昇しきった満ち潮にいる。
このピークが過ぎれば潮は引き、すべてが台無しとなりかねない。
ゆえにこの機を逃してはならぬ。
というのが、ブルータスの主張ですね。
さて『満潮に乗って』の筋を振り返ると、デイヴィッドはうまく機を見て事を運びました。
空襲によってゴードンとロザリーンが亡くなった好機を利用して、アイリーンを操り遺産を手に入れる。
「彼は便乗主義者ですよ、機を見るにじつに敏です」とポアロは言います。
そしてアイリーンの精神が危うくなり、リンを自分のものにしたいとなるや、アイリーンを殺してリンと結婚しようとした。
デイヴィッドとしてはアイリーンを利用した賭けが成功し、遺産を横取りするという勝ちを得た。そしてまだ満ち潮の流れにいると考えた彼はさらにアイリーンを殺すことを決意します。
身から出た錆だ──たしかにそうだ。だが、今でもけっして後悔はしていない。そしてこの先は──一か八か、やってみるまでのことだ。“潮が向いているときにそれにうまく乗らねば、賭荷のすべてを失うのだ”
『満潮に乗って』(254ページ)
せっかくここまでやってきて、アイリーンに自白されてはすべてが水の泡。これまで賭けてきたものをすべて失ってしまう。だから、一か八かで流れの中に身を投じたというわけですね。
しかし最後は失敗に終わりました。ポアロの言葉も「満潮に乗って」の意味を知れば、とてもよく理解できます。
ポアロは呟いた。
『満潮に乗って』(420~421ページ)
「“人間の動きにも潮時というものがある。
満潮に乗りさえすれば運は展けるのだ......”
たしかに、潮は満ちます、が、それはいつか引くときもあるのです......容赦なく人を引きずりこみ、海の藻屑と消えさせる」
ちなみに『ジュリアス・シーザー』ですが、最初は該当部分の前後だけを読むつもりだったのですが、意外や意外、なんかけっこう面白くて最初から最後まで読んでしまった。笑 シェイクスピアを読んだのはこれが初めてかも。
あらすじとしては、強大な権力を持ちつつあるジュリアス・シーザー(カエサル)が腹心ブルータスらに暗殺される話なんですが、皮肉の入り混じるセリフや言葉遣いなんかが面白くて。
訳も複数出ているのですが、その訳の違いをさらっと見るだけでもシェイクスピアの奥深さというか、いろんな訳や解釈があることがうかがい知れて興味深かったです。
今回私が参照したのは以下の3冊。
個人的には、安西徹雄さんの訳がわかりやすくて好きでした。松岡和子さんと福田恒存さんのものは注釈が詳しいです。
よかったらぜひ。