『愛国殺人』ポアロの主義を再確認する〜アガサ・クリスティ

『愛国殺人』ポアロの主義を再確認する〜アガサ・クリスティ

ポアロの主義を再確認する『愛国殺人』アガサ・クリスティ

「愛国」と聞くと、日本人は何を思い浮かべるんだろう。

私は未だにこの言葉の意味をよくつかめていない。

『愛国殺人』は、アガサ・クリスティの全盛期といわれる時期に書かれた作品の1つで、1940年、第二次世界大戦中に刊行されています。

「擲弾兵(てきだんへい)」のような聞き慣れない言葉が出てくるのも時代の影響なんだろうなと感じながら読みました。

擲弾兵は歩兵の一種で、擲弾(手榴弾)を投げる兵士。

目次

『愛国殺人』あらすじ

愛国殺人 (クリスティー文庫)

ポアロが歯医者に行った日の午後、当の歯科医モーリイの死体が発見された。

診察室で頭を撃たれて死んでおり、近くにはピストルが落ちていた。自殺のようにも思われるが、診察時間中に待合室に患者を残して自殺するとはどうにも奇妙だ。

周囲の人間に聞いてもモーリイに自殺するような様子はなかったし、殺害されるような動機も思いあたらない。

捜査にはスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の主任警部ジャップが呼ばれた。モーリイが死んだ当日、国の重要人物である銀行頭取アリステア・ブラントが患者として訪れていたからだ。

犯人の本当の狙いはアリステア・ブラントだったのではないか。この仮説に基づきジャップ警部とポアロはクリニックの関係者や患者たちに聞き込みを始める。

そしていざ、モーリイに最後に会ったと思われる患者アムバライオティスのもとへ2人が向かうと、彼は三十分前に亡くなったと聞かされるのだった。

憂鬱な歯医者での治療を終えてひと息ついたポアロの許に、当の歯医者が自殺したとの電話が入った。しかし、なんの悩みもなさそうな彼に、自殺の徴候などまったくなかった。これは巧妙に仕掛けられた殺人なのか? マザー・グースの調べに乗って起こる連続殺人の果てに、灰色の脳細胞ポアロが追い詰めたものとは?
解説:小森健太朗

『愛国殺人』(早川書房 クリスティー文庫)

second floor =2階は誤訳? イギリス英語の階数表現

まず最初に、ストーリーとは直接関係ないのですが、歯科医モーリイのクリニック兼自宅のビルの件について。

本文の訳の中で、モーリイとライリイの診察室の階数がどうしてもおかしいと思ったので、原書を少し見てみました(Amazon で試し読みできる部分だけ)。

おそらく次の理解が正しいと思います。

  • 1階:待合室
  • 2階:ライリイの診察室
  • 3階:モーリイの診察室
  • 4階(最上階):モーリイの住居

本文中ではモーリイの患者が2階に連れていかれるという描写が多かったのですが、原書を確認したところ、2階とされている部分は second floor になっていました。
(『愛国殺人』p.20「彼を二階へ連れていった」、p.35「二階──ご存じでしょうか?」の箇所にて確認)

イギリス英語では second floor は3階だそうです。

1階が ground floor、2階が first floor、3階が second floor というように、1つずつずれた数字が使われるようです。

アメリカ英語では数字通り、1階が first floor、2階が second floor という理解で良いようです。

やっぱり。なんか変だと思ったんですよね。

1.
モーリイの患者は毎回2階に連れていかれていて、モーリイの診察室は2階にあるかのよう。

2.
ライリイが登場するとライリイの診察室は2階にあったと書かれており、「三階のものと同じくらいの広さ」とモーリイの診察室が3階にあるかのような説明。

3.
ライリイが「ぼくが二階に忍びこんで(モーリイを)やっつけるのは簡単ですが」と発言。モーリイの診察室が2階にあるかのよう。

4.
モーリイの家族、コック、小間使いは最上階で暮らしており、家族の誰かが「三階へしのび降りて、主人を撃ったかもしれない」という描写。モーリイの診察室は3階にあるかのよう。

矛盾してますよね。

モーリイとライリイの診察室は異なる階にあるように思われますし、モーリイの患者が連れていかれるのは second floor(イギリス英語で3階)だったこと、家族の住居である最上階の1階下がモーリイの診察室であることを考えると、ライリイの診察室が2階でモーリイの診察室が3階、家族住居の最上階が4階と考えるのが正しいと思います。

こういう訳の微妙な矛盾や違和感を感じるとストーリーに集中できなくて思考を分断されるから嫌。原書をすべて読んだわけじゃないので、もしかしたら原書内に矛盾があるのかもしれないですが。

『愛国殺人』の読みどころと感想

小説のタイトル

原題は "One, Two, Buckle my Shoe"(わたしの靴のバックルを締めて)。作品中の章題に引用されているマザーグースのタイトルです。

『愛国殺人』という邦題は、1941年にアメリカ版として出版された "The Patriotic Murders" の訳のようです。

アメリカではその後1953年に "An Overdose of Death"(死の過剰摂取)に改題され、最終的にイギリス版と同じ "One, Two, Buckle my Shoe" に統一されたとのこと。

この作品のマザーグースは章題として使われるのみで「見立て殺人」にはなってないので、マザーグースの存在感は正直そこまで感じません。

英題は結局 "One, Two, Buckle My Shoe" になっていますが、邦題が『愛国殺人』で良かった。解説にある通り、真相の示唆とミスディレクションの両方の役割を果たしている。

靴のバックルはポアロが事件の謎を解くきっかけの1つにはなりましたが、本のタイトルとしては『わたしの靴のバックルを締めて』よりも『愛国殺人』のほうが何倍も良いと思う。

私のように愛国という言葉にピンと来ない人でも、読み終わってみるとその意味するところを感じられるほど、何がどう愛国なのか具体的に理解できるようなストーリーになっていると思います。

患者たちのクリニック訪問時系列

この作品は登場人物がやっぱり多く、読みながら誰が誰だったか混乱しがちでした。

特にモーリイの死体が発見された当日、患者たちがいつどのような順番でクリニックを訪れていたのかは結構重要。

時間 モーリイの患者 ライリイの患者
10:00 ソオムズ夫人 ベティ・ヒース
10:30 グラント令夫人
11:00 ポアロ アバアクラムビイ大佐
11:30 アリステア・ブラント
ミス・セインズバリイ・シール
ハワード・レイクス
(呼ばれる前に逃げ出した)
12:00 アムバライオティス バーンズ
12:30 ミス・カービイ
(診察に呼ばれず、13:15に怒って帰った)
13:30 モーリイの死体発見

フランク・カーターは、患者ではありませんが12時過ぎにモーリイを訪問し、いつのまにか帰っていたとされています。

この中で、モーリイは一体いつ殺されたのか。

12:30に呼ばれる予定のミス・カービイは、診察室には呼ばれませんでした。

だから、12:30までにはモーリイが亡くなっていることは確か。

アムバライオティスは、亡くなる前にジャップ警部に「12:25に生きているモーリイと別れた」と話しています。

その話を信用すると12:25~12:30に何かが起きたと考えられるが、どうかというところです。

マザーグースと章題の意味

この作品では、マザーグースの "One, Two, Buckle My shoe" の歌詞が章題として引用されています。

歌詞が示唆する内容とともに物語が進むということ。

それぞれの歌詞が作品中で意味していたと思われる内容をまとめると次のようになると思います。

1. いち、にい、わたしの靴のバックルを締めて

ポアロが歯医者を終えたとき、やってきたミス・セインズバリイ・シールの靴のバックルがちぎれて落ちた。バックルを拾って手渡すポアロ。何か暗示されている予感。物語の始まり。

2. さん、しい、そのドアを閉めて

モーリイに最後に会ったであろうアムバライオティスが、聞き込みをする直前に死亡。真実へとつながる一枚の扉がそっと、どっしりと閉じられた。

3. ごお、ろく、薪木をひろって

ポアロはモーリイと患者たちの身辺を調べ、薪を拾うように事件の情報を断片的に集める。

4. しち、はち、きちんと積み上げ

謎を解くためには、集めた情報を順序よく並べて秩序立てて考えることが必要。ポアロは引き続き捜査を進める。

5. くう、じゅう、むっくり肥っためん鶏さん

ポアロはアリステア・ブラントの家に招待され、大きく肥っためん鶏のようなオリヴェイラ夫人と話す。彼女の声が脅迫電話の声と似ていたためにポアロはいぶかしむ。

6. じゅういち、じゅうに、男衆は掘りまわる

フランク・カーターがブラントの庭師をしている(庭を掘っている)ことに気づくポアロ。ブラントとポアロが庭を歩いていたときに、発砲音が鳴る。

7. じゅうさん、じゅうし、女中たちはくどいてる

公園では、女中たちが恋人たちと思い思いに過ごしている。そのうちの1組は、ジェイン・オリヴェイラとハワード・レイクスであった。

8. じゅうご、じゅうろく、女中たちは台所にいて

モーリイの女中が、今さらになってポアロに手紙を書いてきた。女中とコックは、モーリイが死んだ日に重要なことを目撃していた。

9. じゅうしち、じゅうはち、女中たちは花嫁のお仕度

ポアロが事件の真相を明らかにする。この事件には、ある人物の結婚を発端とする動機があった。

10. じゅうく、にじゅう、私のお皿はからっぽだ......

エピローグ。事件の謎はすべて解消。

どうでしょう。

歌詞が意味深な存在として良い役割を果たしている章もあれば、ちょっとこじつけっぽいなと感じる章もある。

特に「じゅうさん、じゅうし、女中たちはくどいてる」は、取ってつけたように女中たちが公園で恋人と戯れるシーンが描かれているような。。。

まぁ良いです。

最後の「じゅうく、にじゅう、私のお皿はからっぽだ......」については、ちょっとよくわからなかったんですが、おそらくバーンズとのやりとりを経てポアロのなかに残っていた謎が解消し「解くべき問題はすべてなくなった=事件は解決した」という理解で良いんだと思う。

物語の冒頭で、ポアロが歯医者の診察を終えたあとタクシー運転手に「心配ごとは空にしたよ!」と言う場面があるので、その部分と連動した表現でしょう。たぶん。

ただ、このフレーズをつぶやいたポアロの心境が、ポジティブなのかネガティブなのか、事件が終わってすっきり爽快なのか、事件の結末に虚無感を感じているのか、どっちなんだろうなーというのはわからないまま終わりました。

この作品は見立て殺人ではないので、マザーグースが使われているからといって『そして誰もいなくなった』のような恐怖は作品中にはありません。

でもこのマザーグースを実際に聞いてみると、子ども向けの無邪気で陽気な歌に沿ってミステリーが進行するというシュールな恐ろしさがじわじわ感じられると思います。

調べてみると歌詞には複数のパターンかあるようです。「ドアを閉める」「ドアを開ける」「ドアをノックする」など。

原書で用いられている英語の歌詞は次の通り。

One, Two, Buckle My Shoe
(いち、にい、わたしの靴のバックルを締めて)
Three, Four, Shut the Door
(さん、しい、そのドアを閉めて)
Five, Six, Picking Up Sticks
(ごお、ろく、薪木をひろって)
Seven, Eight, Lay Them Straight
(しち、はち、きちんと積み上げ)
Nine, Ten, a Good Fat Hen
(くう、じゅう、むっくり肥っためん鶏さん)
Eleve, Twelve, Men Must Delve
(じゅういち、じゅうに、男衆は掘りまわる)
Thirteen, Fourteen, Maids Are Courting
(じゅうさん、じゅうし、女中たちはくどいてる)
Fifteen, Sixteen, Maids in the Kitchen
(じゅうご、じゅうろく、女中たちは台所にいて)
Seventeen, Eighteen, Maids in Waiting
(じゅうしち、じゅうはち、女中たちは花嫁のお仕度)
Nineteen, Twenty, My Plate's Empty
(じゅうく、にじゅう、私のお皿はからっぽだ......)

数え歌なので歌詞そのものにはあまり意味はなく、数字の音と韻を踏んだ単語で歌詞がつけられています。
two と shoe、four と door、six と sticks、eight と straight、ten と hen という調子で。

「じゅうしち、じゅうはち、女中たちは花嫁のお仕度」は Maids in waiting ですが、in waiting に花嫁支度という意味があるのか調べてもわかりませんでした。かなりの意訳かもしれません。

感想(ネタバレあり)

第二次世界大戦が背景にあるので、「赤の連中」とか「黒シャツ党員」とか、登場人物の考え方とかスパイがどうとか、現代の感覚からするとちょっと遠い世界のように感じられる部分はあります。が、ラストは結局そういう政治テーマとは一線を画していてちょっとホッとした。

読んでいる途中、私はハワード・レイクスが何者なのか読み取ることができませんでした。

英語の Wikipedia に、ハワード・レイクスは左派政治活動家(leftist political activist)と書かれているのを見てびっくり仰天。そうだったの?

ブラントの派閥に反対するグループの末端としか読み取れなかった。

ハワード・レイクスは保守派のブラントに反感を持っていることはわかるし、読み直してみて彼の「どうせ資本家どもの用心棒じゃないか」「彼は進歩のためには邪魔者なのだ」などのそれっぽい発言を見つけたけど、、それだけで左派政治活動家とまでわかる...?

薄ぼんやりした現代人の私にはちょっとわからなかった。


この小説の一番の読みどころは、ミステリーとしての筋書きやトリックではなく(それも面白いんだけど)、ポアロがブラントという人間のイギリスにとっての価値を理解していながらも、正しく弾劾したところだと思っています。

物語の後半以降、ブラントは怪しいなとはなんとなく思っていました。

ポアロがブラントの自宅を訪れ、謎解きが始まったとき、このラストを待っていました。

ブラントは自分の存在が国家に与える影響と引き換えに4人を犠牲にし、さらに4人の生命を取るに足りないものとして自分の犯罪を正当化しようとしましたが、ポアロはこれを絶対に許さなかった。

ブラントは優秀な銀行家かもしれませんが、人間としては最低な人種。

まず重婚。レベッカと結婚を決めたときに、前妻ガーダと離婚すれば良かっただけなのにそれをせずに、密会を楽しんでいた。

(アガサ・クリスティの作品では重婚は犯行動機としてけっこう出てきますが、なんで重婚なんてことがそんな頻繁に可能になるのか、未だによくわかってない)

アムバライオティスに脅迫されたから消すという発想。そして実際に殺害したこと。

罪のないミス・セインズバリイ・シールを口封じに殺害したこと。

アムバライオティスの殺害機会を得るためという理由だけでモーリイを殺害したこと。

何もしていないフランクを身代わりとして殺人犯(=絞首刑)にしようとしたこと。

さらに、犠牲にした4人よりも自分を価値ある人間と考え、国のためには必要なことだと自分の犯行を正当化しようとしたこと。

ポアロが許せないのは間違いなく最後の部分でしょう。

この作品の結末には二つの意味で安心しました。

1つは、国のために国家の重要人物を殺そうとするなどという似非スパイ的な話ではなかったという点で。

もう1つは、ポアロがブラントを見逃さなかったという点で。

英題も "The Patriotic Murders" に戻せば良いのに、と感じながら読み終えました。

アガサ・クリスティの作品・感想一覧

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