パレンケ遺跡訪問記(3)宮殿

パレンケ遺跡訪問記(3)宮殿

パレンケ遺跡紹介の続き。今回は宮殿です。

ここは大変見どころがあるにも関わらず、1回目に訪れたときに団体ガイドで説明を省略されてしまった場所。

もし団体ガイドで宮殿が飛ばされそうな場合は、離脱してぜひ宮殿を見てください。

目次

迷路のようなパレンケの宮殿

パレンケの中で最も大きい建造物である宮殿政治の中枢であり、王族の住まいでもあったようです。
パレンケ遺跡博物館に展示されている復元模型がこちら。

大きな基壇の上に建てられており、基壇内には地下通路があるようです(地下への入口は見つけられなかったので、一般観光客はおそらく入れないのだと思います)。

初期の頃(5世紀頃)の建物は低く築かれた基壇の上に建てられていましたが、その後、古い構造の取り壊しや埋め立てを含む増築が行われ、7世紀半ば頃にかけてこのような高さのある広い基壇となったようです。ちょうどパカル王の時代ですね。

現在私たちが見ている最終形の宮殿は、790年頃に完成したとのこと。長い年月に渡る増改築を経て、回廊、階段、神殿、地下通路、中庭、トイレ、スチームバス、4層の塔を備える大建造物となりました。

碑文の神殿から向かって目の前にあるのが宮殿の西面、Casa D(家D)と呼ばれる建物です。回廊の屋根の上に、復元模型で見た装飾の一部が残っているのが見えます。その隣には塔。マヤ遺跡でこういう形の塔があるのは珍しい。

回廊の柱には、下の写真のような漆喰のレリーフが残っています。

パカル王と思われる人物が斧と蛇神を手にして踊っている様子
何かの植物を手にしているように見えます

東の中庭(捕虜の中庭)

この中庭を囲む階段には、捕虜の彫刻が多く置かれています。階段の段差面にはマヤ文字が刻まれている。

この碑文によると、599年に(他都市から)パレンケに対する攻撃があり、その60年後(659年)にパレンケが大きな復讐をおこなったようです。

下の写真は、屋根の下に捕虜郡を刻んだ石板があります。

皆、手を胸の前に置き、服従の意を示しています。白くてきれいな石は復元でしょうか。下の写真はその他の捕虜彫刻の一部。

捕虜たちは、パレンケ周辺にあるポモナ、サンタ・エレナ、ピエドラス・ネグラスの高官たちであることが、記録されているマヤ文字からわかっています。頭飾りや耳飾り等の宝石が外されていないのは、身分の高い人間を捕虜にしたことを示すためだと思われます。

中庭に面した回廊の柱にも、漆喰レリーフのあとが見えます。

興味深い構造物 〜 マヤアーチ・トイレ・天体観測所など

回廊の屋根はマヤアーチ。石を水平に少しずつずらしながら三角形状に積み上げる建築方法で、力学的にアーチとは異なるため、擬似アーチ(Arco Falso)と呼ばれます。ところどころにT字型の窓。

こちらはトイレだそうです。

でも、特に2つ目の写真のほう、穴が小さすぎないかな? 本当にトイレだとしたら、かなりのコントロール力が必要では…。
あと、囲いとかあったのかがちょっと気になる。

床下にはきちんと排水路が整えられているようです。
メソアメリカの人々はオルメカ時代から排水設備を持っている。技術がずっと引き継がれていたのでしょうか。

4層の塔は、天体観測所だと考えられています。

登れないので構造がよくわからなかったのですが、内部に階段とかあるんでしょうかね。
天気が悪かったため全体的に写真の雰囲気が暗いのですが、なんかこの塔の下のあたりの朽ちてるような感じがわりと好き。

出入口の左右にある壁には、このような構造がよく見かけられます。これはドアを紐でくくりつけるための構造なんだそう。

これは屋根にあった装飾なのですが、チャックか…? 丸メガネの特徴はトラロックのようにも見える。両方とも雨の神で、テオティワカンなど中央高原ではトラロックの名で信仰されていました。ただウシュマルとは異なり、この遺跡の建造物からは雨信仰はほとんど見られません。

パレンケはウスマシンタ川流域に栄えた都市のうちの1つですが、このエリアは石灰質の土地で水捌けもよく、周辺の高地から水がウスマシンタ川に向かって下りてくるような立地。流域で栄えた他都市同様、水には困らなかったようです。遺跡内には川も流れています。

ベッドだそうです。カビ具合がすごいですね。当時の人たちは湿気対策をどうしていたんだろう。壁には窓が開けられています。

網が張られていてよく見えないというか全然見えないんですが、パカル王の即位の様子を彫ったレリーフ。パレンケ遺跡博物館にイラストがありました。

パカル王は双頭のジャガーの玉座に座っていますね。12歳での即位ですが、レリーフではカッコよく大人の男性として描写されているように見えます。

王冠を手渡そうとしている左側の女性は、パカル王の母であるサク・クック女王。この後パカル王が王位を継ぎます。父親はパレンケ王家の人間ではなかったために、女王である母親が描かれたと考えられているそう。マヤ文明は基本的に父系制でしたが、男子が生まれなかったなどの場合においては女性も補足的に血統を担っていたようです。

レリーフのはっきりした写真は、以下リンクから見ることができます。

パカル王の玉座

パカル王の玉座。南の地下回廊で発見されたもの。宮殿内では見ることはできませんが、パレンケ遺跡博物館に展示されています。両端には双頭のモンスターの顔が描かれているとのこと。左端の方はなんとなくわかります。

刻まれているマヤ文字には、天上世界と地上世界を行き来するのがこの el Monstruo Cósmico(直訳で宇宙のモンスター)であると記述されているよう。また、パカル王の即位についても言及されているようです。

パレンケ宮殿の石板

こちらももう宮殿からは撤去されてしまっている石板。宮殿の北側に据えられていたものだそうです。写真は博物館展示のもの(本物かレプリカかはわかりませんでした)。

約 2.5 m 四方のこの巨大な石板は、パカル王の息子であり、次の次の王であるカン・ホイ・チタム2世の時代のもの。上部に人物の浮き彫りが施され、下部にはマヤ文字が敷き詰められています。

この碑文には、主にカン・ホイ・チタム2世にまつわる歴史が記され、また父であるパカル王の即位と死、次のカン・バラム2世(パカル王の息子であり、カン・ホイ・チタム2世の兄)の即位と死についても記されているようです。

上部に描かれている中心人物はカン・ホイ・チタム2世。左に描かれているのが父であるパカル王。彼に王冠を授けようとしています。右に描かれているのが母(パカル王の妻)で、戦争の記章である火打石と盾を差し出しています。カン・ホイ・チタム2世が即位したときには両親ともすでに亡くなっていましたが、息子の即位の当事者としてこの石板には登場しています。

パレンケの宮殿からの景色

宮殿から見た、碑文の神殿、赤の女王の神殿、頭蓋骨の神殿。

宮殿と十字の神殿エリア(写真左奥)の間には川が流れています。川の両脇の石塀も当時つくられたものだそう。

歩道の両脇はお土産品を売る地元の人たちでいっぱいです。私は買いませんでしたが、意外とメキシコ人観光客が置物などを買ってました。

宮殿前にあったセイバ。非常に神聖な木とされており、マヤの世界観である地下世界(根)、地上世界(樹幹)、天上世界(樹冠)を表す象徴でもありました。

長くなりましたが以上で宮殿紹介を終わります!
ぜひ見逃さずに回ってみてください。

※本文中の記述はガイドさんの説明と、INAH(メキシコ国立人類学歴史研究所)発行のガイドブックに基づいています。

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